こどもの学力の基本、大人の学びなおしに必要な考え方、スキルとは何か?
AI時代の到来、そして深化を続ける経済のグローバル化を受けて、近年、わが国では英語教育に関する議論が以前にもまして盛んです。また、それと同時に、教育関係者の注目を集めているのが、最近の「子どもたちの学力」の低下です。「学びなおし」や「リスキリング」が注目を集めているとはいえ、日本で教育を論ずる場合、その対象はもっぱら「子ども」です。
一方、ソーシャル・メディアの隆盛を受けて、近年明らかになりつつあるのが、「大人の読解力」の課題です。SNS上でも他人の文章をきちんと理解せず、「理不尽で不可解な批判」を受けることが多くなった、と文筆業に携わる人たちがこぼしている、と国立情報学研究所教授で数学者の新井紀子氏は報告しています。
「教科書が読めない人」は実はこんなにいる
英語及び日本語の論文を指導したり、英語スピーキングのワークショップを主宰していて感じるのは、「母語の運用能力と外国語のそれは比例する」という事実です。母語の能力が低いと、それに見合う外国語しか使えません。なぜなら、「ことばが思考を形づくる」からであり、逆に外国語の能力が高まると、それが母語の運用能力にも「正の効果」をもたらします。最近、読解力・国語力の低い人がどのように文章を理解しているのか、観察から気づいた点がありますので、共有したいと思います。
まず、国語力が低い人の多くは、「木(語彙)を見て、森(相手方の意図)を見ず」という文言の理解の仕方をしています。実際、この言葉のとおり、彼らの「文章を読む」という行為は、それを構成する「語彙を見ている」だけのことが多々あります。あたかも、文章が脈絡なく、語彙(記号)が並んでいるのを見ているような感覚と言えばいいでしょうか。彼らには、文章を書いたり、ことばを発するのは、発信者が自分の「意図」を相手に伝えるためだ、というあたりまえの認識が欠けているのではないか、と思われることもよくあります。
また、読解力、「聞く力」の弱い人は、語彙の解釈も辞書の定義に沿っているわけでもなく、極めて恣意的、自己流です。そして、本人には、自分がそのように文章を読んでいる(または聞いている)という自覚がない、というのが一番の問題です。
国語力の低い人のもう一つの特徴は、筆者(話者)の文章の中から選んだ1,2語からイメージを膨らませ、脳内で発信者とは別の物語を創りあげてしまうことです。そこから、ストーリーが別の方向へ暴走してしまい、元の文章のメッセージ(思惑)とはまるで違う地点に着地してしまう場合が多々あることです。
ここから言えることは、「読解力が低い」人にとって、文章を読んだり、聞いたりする行為は、「筆者との対話」ではなく、自分一人で完結する作業のため、「自分の理解」が最重要なのです。最近、「わかりやすい」ことが、日本で過剰に求められるようになった背景には、「読書」「対話」における自己中心的な姿勢(お客様であり、消費者という立ち位置)が蔓延した結果ではないか、と考えさせられることがよくあります。
だからこそ、受け手の理解が発信者の意図とは違う、と指摘された場合、国語力に問題がある人が、しばしば「相手の意図は関係なく自分の理解の方が正しい」と主張するのは、このような思想の裏返しなのではないかと思います。私は、このような行為を「オレ様的文章読解術」と密かに呼んでいます。
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